山階の土地

2021年 多度津町山階・春日神社 地籍調査

最近の休日は家で過ごしている人も多いかもしれません。でもどこか行きたい。そんな時は郷土を感じながらの散歩はいかがでしょうか? 歩き慣れている道でもゆっくり歩くといろんな発見があるものです。

春日神社のまわりを散歩していると、上の写真のような杭を見かけます。山階では昨年から地籍調査が行われており、土地の境界に杭が打たれているのです。

地籍調査とは?

地籍調査とは土地を管理するための地図(地籍図)を作るために市町村が行う調査。土地の所有者・境界・地目などを調べます。実は、現在の土地管理に使っている資料はかなり古いもので、現状との誤差があるんだそうです。だから調査をして作り直しているわけですね。

思えば地元の土地の歴史については知らないことだらけです。少し調べてみることにしました。

土地の歴史

現在の土地は公図コウズという図面によって管理されています。この公図のもとになっているのは字限図アザキリズという図面。この図面は明治政府の指示のもと住民自身が土地を測量して作ったそうです。ご先祖が作った図面によって土地は今まで管理されてきたんですね。当時は税の負担を軽くするために実測よりも土地を狭く申告することもあったようです。

そして字限図を作る時にもととなったのが江戸時代の検地帳。この帳簿にはそれぞれの土地の情報が一筆(1行)で記されていました。だから土地のことは今でも1筆、2筆と数えるんだそうです。

山階の検地

山階では寛文13年(1673)に検地が行われた記録が残っています。山階村の阿庄と川西の検地帳が現存しており、現在は香川県立文書館に保管されています。江戸時代初期には既に山階として区切られた土地があったのですね。

では今の山階の土地区画はいつ行われたのでしょうか? さらに遡って調べてみました。

山階と条里遺構

山階の土地区画の歴史は古く、少なくとも中世以前であることがわかりました。その証拠となるのが条里遺構です。条里遺構とは古代から中世にかけて行われた土地区画の跡で、香川県では田園地帯を中心によく見られます。

条里による区画は、土地を1町(約109m)間隔の方角線で区切ります。そして6町×6町の土地を条里ジョウリと呼び、1町×1町の土地をツボと呼びました。

下の地図は山階の土地を小字(小区域)ごとに色分けし、そこに条里の線を重ねたものです。太い線が条里、細い線が坪です。現在の土地の境界と驚くほど一致します。

山階周辺の土地の多くは条里に沿って区画されており、それがはっきり残っています。条里に沿っていない所は山や川など地形に合わせたのでしょう。

条里による区画は荘園制の衰退とともに行われなくなったとされています。つまり、条里に沿った境界が残っていることが、中世以前から続く土地である証拠なのです。

土地は時代の移り変わりとともに幾度となく再整備されていると思いますが、山階の土地の多くが中世以前に行われた土地区画を現代まで受け継いでいることは間違いなさそうです。

山階と善通寺

今回、山階の条里を復元する上で参考にしたのは善通寺の史料です。下記は善通寺伽藍并寺領絵図と呼ばれるもので、徳治2年(1307)頃の寺院周辺の様子を示した絵図。

この絵図は南が上になっています。残念ながら山階までは描かれていないのですが、中央に太い線で弘田川が描かれています。この川の下流にあるのが山階の土地です。

さらに久安元年(1145)の讃岐国善通・曼荼羅寺寺領注進状という古文書には、寺院周辺の条里における位置が細かく記されています。これらの史料から善通寺を基準として条里遺構に沿って線を延長することで山階の条里を復元することができました。

古い歴史を持つ善通寺と同様に、山階にも古い歴史がありそうです。

古代の山階

近年になって山階近隣から土地区画の歴史を裏付ける遺跡が発掘されています。

例えば、山階の西にある奥白方中落遺跡からは8世紀中頃の条里の線に沿った遺構が見つかりました。山階の東にある三井鴨取遺跡からも年代は不明ですが似たような遺構が見つかっています。

8世紀中頃は奈良時代。墾田永年私財法が出された頃です。全国的に見てもかなり早い段階から土地区画が行われた可能性があります。

山階の条里遺構は周辺地域とわずかにずれているところもあり、土地一帯がすべて同時期に区画されてはいないようですが、山階の土地区画の歴史は古代まで遡るのかもしれません。

地名に見える古代のなごり

古代では土地の位置を示す方法として条里を利用していました。山階の南部には条里による地名が残っています。

ゴウツボ

昭和30年代に発行された「四箇村史」や「多度津町史」には五の坪(五ノ坪)と記されています。五の坪とは条里内の5番目の坪という意味で、位置としては現在の向井集落の南側を指しています。おそらく向井集落は北に集落を作り、南を耕作地として五の坪と呼んでいたのでしょう。そこから南へ南へと開拓を進めていった結果、この土地が生まれたと考えられます。やがて集落の人口が増えるにつれて、本来の五の坪の位置は耕作地から集落地に変わりましたが、耕作地「五の坪」の呼び名だけが残り、それが長い時間の中で郷の壺という地名へと変化したものと思われます。

五町地ゴチョウジ

由来は諸説あります。現在は2町半しかありませんが、昔は5町の面積を持つ土地だったのかもしれません。郷の壺に隣接しているため五の坪から派生したとも考えられます。また春日神社からはちょうど5町の距離にあります。「四箇村史」には五丁地と記されています。

六反地ロクタンジ

耕作地が1町に満たない土地は、その面積がそのまま地名になったりもしました。1町を10等分した土地ひとつを1反と呼びます。この土地は6反の耕作地だったようです。また、条里における6番目の坪「六の坪」に隣接していることから名付けられた可能性もあります。

三反地サンダンジ

常盤池の北西にある3反の耕作地。現在でも約3反の面積を持つ田畑が残っています。

筋違スジガエ

常盤池の西、条里の線を越えた先にある地名。筋が違う土地ということで名付けられた地名と思われます。現在は善通寺市碑殿町の土地ですが、碑殿町にも筋替という地名(小字)として残っています。

このように、土地の歴史が地名として残っています。

歴史が眠る土地

山階では近代以降に大規模な開発は行われていません。そのため発掘調査も少なく、歴史的資料の乏しい土地です。しかし、それは古い遺跡が無傷のまま残っている可能性を秘めています。

近年の発掘調査によって弘田川流域からは縄文時代の土器が見つかっています。山階唯一の独立した丘陵である船岡山からも弥生時代の甕が発掘されているようです。

はっきりしたことはわかりませんが、想像していたより山階の歴史はずっと古そうです。

参考史料

  • 四箇村史
    昭和32年(1957) 
    四箇村史編纂委員会/編
    P6〜12、66〜68
  • 多度津町史
    昭和38年(1963) 
    多度津町史編纂委員会/編
    P358、361
  • 善通寺市史 第1巻
    昭和52年(1977) 
    善通寺市企画課/編
    P278〜295
  • 絵図にみる荘園の世界
    昭和62年(1987) 
    小山靖憲、佐藤和彦/編
    P29〜36
  • 多度津町の地名
    昭和63年(1988) 
    多度津町教育委員会/編
    P3〜5、89〜96
  • 香川県史 第1巻 通史編 原始・古代
    昭和63年(1988) 
    香川県/編
    P691〜693、704〜707、725〜728
  • 県道多度津丸亀線道路改築事業(多度津工区)に伴う埋蔵文化財発掘調査報告
    平成21年(2009) 
    香川県埋蔵文化財センター/編

※当ページの地図で示している境界は、地番データに基づきGoogleマップをトレースして再現したもので、実際の境界とは多少の誤差があります。ご了承ください。

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