山階の由来
多度津町の山階という地名をご存知でしょうか?
知らない人にとっては読むのも難しく「さんがい」などと読まれることもありますが、
正しくは「やましな」と読みます。
私たちにとっては地元の地名。今回は「なぜ山階という地名がついたのか」を探っていきます。
下の地図の赤枠で囲まれているのが山階です。
本記事は2024年4月12日に一部改訂しております。
地形による地名?
まず郷土史料には次のように記されています。
階は堂に登る道、また梯、級などの意で、山階は天霧山のふもとで、低い山や坂があるところにちなみ、山城国宇治郡山科とあるのも同じ意味であろう。中央を弘田川が北流して西白方にいたる。
『多度津町の地名』 P93より引用
山城国宇治郡山科とは現在の京都府山科区のことで山に囲まれた土地です。
多度津の山階もここと同じように山や坂などの地形によって名付けられたとされているようです。『新撰讃岐国風土記』という明治の史料にそのように記されているようですが、天保5年(1834)に著された『讃岐国神社考』にも同様の記述があります。
山城國在山階村 眞淵曰 山麓登々若地有品階 故此地亦據雨霧山之麓則義葢與之同
『讃岐国神社考』より引用
しかし、山階が地形から名付けられたとするなら少し気になることがあります。それは多度津の山階は山や坂がそれほど多い土地ではないということ。まだ山階の西にある奥白方の方が多いぐらいです。
それに地形によって名付けられたのであれば、各地に山階という地名がありそうなもの。山階はとても珍しい地名です。何か別の由来があるのではないでしょうか。
まずは、山階という地名がその他にないか調べてみました。
滋賀県の山階町
滋賀県の長浜市に山階町というところがあります。しかもこの町は平野の中心部にあり、山や坂もありません。
この山階町を地名辞典で引いてみると、そこには山階荘という荘園があったことに由来すると記されていました。荘園とは中世における権力者の所有地。当時は権力のある貴族や寺社が全国に広大な土地を持っていました。そしてこの山階荘を所有していたのは興福寺でした。
興福寺は奈良のお寺ですが、かつては京都の山科にあって山階寺と呼ばれていた寺院。そして藤原氏の氏寺でもあります。そう言えば多度津の山階の氏神様(春日神)も藤原氏の氏神です。なんとなく繋がってきました。
ここで大胆な仮説を立ててみました。
山階は藤原氏ゆかりの地?
山階は藤原氏の土地で、京都の山科と縁があることを示す地名なのではないでしょうか?
まずは京都の山科(山階)と藤原氏の関係を調べてみました。
山科と山階
読み方は同じ「やましな」でも京都は「山科」で、多度津は「山階」です。これらは違うものなのでしょうか?
調べてみると山城国(京都)でも山階と書いていた時代がありました。『今昔物語集』などでは山科ではなく山階と記されています。山科と山階は同じ意味のようです。
山階は古い時代の地名を受け継いでいるのかもしれません。
山階と藤原氏
山階と藤原氏の関係は飛鳥時代まで遡ります。
かつて京都の山科には大化の改新で有名な中臣鎌足の邸宅がありました。そこに建てられたのが山階寺。中臣鎌足は最期に天智天皇から「藤原」の姓を賜って藤原鎌足となり、そこから藤原氏の歴史が始まります。山科(山階)は藤原氏の起源とも言える地名なのかもしれません。
山階寺は最終的に、藤原不比等(鎌足の次男)によって奈良に移されて興福寺となりますが、山階寺は藤原氏の氏寺の名称として奈良時代以降も受け継がれます。
歴史上では「山階」と「藤原氏」は深く関係しており、山階が藤原氏ゆかりの地である可能性は高そうです。
山階の由来となる5つの仮説
さらに調べてみると、多度津の山階が藤原氏ゆかりの地であることを匂わせる史実がいくつかありました。それらをもとに、5つの仮説としてご紹介します。
「古代の藤原郷」説
正倉院に保管されている古文書の天平17年(745)の記事に、多度郡藤原郷の大伴部首豊国と大伴部田次という人物が出てきます。これは多度郡(今の多度津町と善通寺市付近)のどこかに藤原郷という村があり、大伴部という人が住んでいたということです。
『西讃府志』によると、この藤原郷は5世紀頃に国造が定めた藤原部(允恭天皇の妃のために働く集団)から生まれた村だと記されています。国造とは今の県知事のような役職で、この地では佐伯直という豪族が朝廷から国造を任されていました。そして大伴部は大伴氏という氏族の下で働いていた人々で、大伴氏と佐伯直氏は同族関係にありました。つまり藤原郷は佐伯直氏の拠点の近くにあった可能性が高いということです。この拠点は今の善通寺市弘田町付近にあったとされており、山階はこの弘田町と隣接しています。
以上のことから推測できるのは藤原郷が今の山階ではないかということ。山階は弘田町を流れる弘田川の下流域にあります。古墳の分布や近年の発掘調査によって、弘田川流域には早い段階から集落があったとされており、それが藤原郷であったとしてもおかしくありません。
平安時代になると藤原郷は歴史に出てこなくなります。それは藤原氏の私有地「山階」へと変化したからではないでしょうか。
しかし『西讃府志』には、藤原郷は葛原郷(今の多度津町の東部一帯)の事ではないかと記されています。葛原周辺は四条川(今の金倉川)の氾濫原野だったとされており、中世以前の遺跡も見つかっていないため古代の集落があったとは考えにくいのですが、今のところ藤原郷は葛原郷ということになっているようです。将来的に発掘調査が進めば何か新しい発見があるかもしれません。
「奈良時代の山階寺」説
『新抄格勅符抄』という古文書に、天平10年(738)に讃岐から山階寺に封戸100戸が献上された記録があります。これは奈良時代に讃岐のどこかで100世帯が山階寺(興福寺)のために働いていたということです。当時は1世帯あたりの人数が多く、50戸でひとつの郷(村)という単位でしたので、100戸は2村分に相当します。
これが今の多度津の山階であることを示す史料は見つかりませんでしたが、香川県で山階という地名は他にありません。奈良時代に山階寺の土地として山階と名付けられたのかもしれません。
「中世の藤原荘」説
興福寺の古文書の正治2年(1200)の記事に多度郡藤原荘という荘園が出てきます。この藤原荘は鎌倉から室町時代にかけて興福寺が所有していた土地ですが、多度郡のどこにあったのかはまだ解明されていません。しかし、興福寺の古文書『大乗院寺社雑事記』にはこの藤原荘が山階にあったのではないかと思わせる史実が3つ記されています。
1つ目は、文明元年(1469)の記事に「惣じて当庄は、寺領においては無双の大庄なり、七十七丁百三十歩」とあることです。藤原荘は大きな荘園で77町もの広さがあったことがわかっています。多度津藩の記録では元禄7年(1694)の山階村の広さは111町余り。土地の広さとしては全く問題ありません。多度郡には藤原荘の他にも、多度荘、葛原荘、堀江荘、良田荘、吉原荘、善通寺一円保など多くの荘園がありましたが、藤原荘以外は既に場所が判明しています。それ以外でこれほどの広さがある土地は山階を除いてほとんどありません。
2つ目は、藤原荘の請負代官(荘園管理の請負人)に新開という人物が見えることです。新開という姓は各地に分布していますが、山階は近隣地域に比べて新開という姓が多いのです。
3つ目は、延徳2年(1490)に善通寺の法師が、代官職(荘園の管理権限)を求めた記録があることです。善通寺は山階を流れる弘田川の上流にあり、一円保という荘園を展開していました。荘園を広げるには近くの荘園を取り込むのが最も効率的で、一円保のすぐ南にある山階の地はその条件に当てはまります。
山階には阿庄、惣官など荘園のなごりを思わせる地名がいくつか残っています。山階に何らかの荘園があった可能性は高く、それが藤原荘なのではないでしょうか。そして、それが藤原氏の影響により山階へと変化したのかもしれません。
「藤原定家の直営地」説
百人一首を選んだ歌人として有名な藤原定家。この人物が山階に関わっている可能性があります。
中世では荘園が増えたことで税収が減り、朝廷は貴族(官僚)に給料を払えなくなりました。そこで給料の代わりに与えていたのが土地の支配権です。藤原定家の日記『明月記』によると建仁3年(1203)に藤原定家には讃岐のとある村の支配権が与えられています。その村が今の山階かもしれません。
その理由は『明月記』の寛喜2年(1230)の記事にあります。
まず記事の中に「自領多度郡弘田郷」という一文があります。山階はその昔、弘田郷に属していました。さらに当時の弘田郷の南部(今の山階の南)には一円保という荘園があり善通寺領だったことがわかっています。つまりここで記されている藤原定家の自領は一円保以外の弘田郷=山階を指している可能性があります。
さらに記事によるとこの弘田郷の年貢(税)の取り立ては公文(現地を管理する武士)の佐々木信綱という人物に任せています。現在の山階には公文堂という地名が残っており、佐々木家も数軒みられます。
『明月記』に山階という地名は見られませんが、室町時代に入ると『道隆寺温故記』という古文書に「多度郡山階縣」という地名として出てきます。この時代では◯◯郷といった村名が一般的です。縣というのは時代によって意味が変わってくる文字ですが、中には「直営地」という意味もあるようです。
基本的に年貢は国衙という役所を経由しますが、藤原定家は直接年貢を受け取っていたことがわかっており、藤原氏の直営地として山階縣と名付けられたのかもしれません。これは古文書にほとんど山階の名が出てこない理由にもなります。
「室町時代の随心院」説
善通寺の古文書によると、康永元年(1342)の時点で弘田郷(山階が属していた村)は善通寺の領地となっています。しかし、このとき土地の支配権を握っていたのは善通寺ではなく京都の山科にある随心院というお寺でした。当時は土地を中央の権力者に預けることで、租税を免除してもらっていたのです。
室町時代では武士による侵略が相次ぎ、土地を奪われては取り戻すといったことを繰り返しています。随心院の土地であると示すために山階と名付けたのでしょうか。随心院は小野小町ゆかりのお寺ですが、一条家、二条家、九条家など藤原氏の家系が住職を務めていた時期があり、藤原氏と無関係ではありません。
随心院による支配は文明6年(1474)頃まで続きますが、最終的に弘田郷は香川氏の領地となります。100年以上にわたる随心院との関わりが山階の由来なのかもしれません。
以上、5つの仮説をご紹介しました。これらはすべて推測で、検討違いかもしれません。しかし真実に近いものもあるのではないかと思っています。何かお気づきの点ございましたらコメント、お問い合わせいただけると嬉しいです。
京都の山科の由来
もし多度津の山階が藤原氏に由来するとして、京都の山科は何に由来する地名なのでしょうか?
これは調べたのですがわかりませんでした。それこそ地形によるものかもしれません。地名辞典には次のように記されていました。
「しな」は層をなして重なったものを意味するところから、山科も三方を丘陵に囲まれた盆地に対して名付けられたものとの説がある。
『角川日本地名大辞典 26-2 京都府 下巻』 P442より引用
地名は奥深いですね。
参考史料
- 讃岐国神社考
天保5年(1834) 秋山厳山(惟恭)/著 - 角川日本地名大辞典 25 滋賀県
昭和54年(1979) 角川日本地名大辞典編纂委員会/編
P706、707 - 角川日本地名大辞典 26-1 京都府 上巻
昭和57年(1982) 角川日本地名大辞典編纂委員会/編
P1434 - 角川日本地名大辞典 26-2 京都府 下巻
昭和57年(1982) 角川日本地名大辞典編纂委員会/編
P442 - 角川日本地名大辞典 37 香川県
昭和60年(1985) 角川日本地名大辞典編纂委員会/編
P506、507、691、692、703、704、815 - 香川県史 第1巻 通史編 原始・古代
昭和63年(1988) 香川県/編
P808、809 - 多度津町の地名
昭和63年(1988) 多度津町教育委員会/編
P93 - 香川県史 第2巻 通史編 中世
平成元年(1989) 香川県/編
P143、144、147、195、202、315 - 香川県史 別編2 年表
平成3年(1991) 香川県/編
P19、42、45、65、88、91、92、94
郷土史に興味ある爺です。藤原定家の弘田荘園を調べていると貴方様のブログに到着しました。興味津々で読ませて貰っております。古文書が読めないもんで何時もネット便りです。私は多度津の庄で住んでおり本当に近く一寸恥ずかしいです。
ご覧いただきありがとうございます。当方もまだまだ知らないことばかりで、どれだけ調べても推測の域を出ません。ただそれでも情報を発信することで地元に興味関心を持つ人が増えてくれればと思っております。今後も様々な角度から情報を発信してまいりますので、何なりとコメントください。