西讃府志
『西讃府志』という書物をご存知でしょうか?
西讃(香川県の西部)のことを記した全61巻からなる地誌で、丸亀藩の指示により天保10年(1839)年から編纂が進められ、安政5年(1858)に完成したものです。
丸亀藩および多度津藩の情勢にはじまり、治められていた郡村のこと、寺社、地産品、文化や風習のことなど江戸時代後期の香川県西部の様子が幅広くまとめられています。
実はこの書物に獅子舞のことが書かれています。当時の獅子舞とはどのようなものだったのでしょうか?
江戸時代後期の獅子舞
獅子舞は、この地方の民俗・風習のひとつとして次のように記されています。
獅子
『西讃府志 第3巻』より引用
八月、九月ノコロ、村々ノ祭リニ、獅子ノ舞トテ、狻猊ノ頭ヲ作リ、是ニ衣ヲ付、前後二人彼衣ヲカヅキテ舞ヲナス、太皷笛鉦ナド鳴シ、其曲節ヲナセリ、凢太皷ニ三人、笛鉦各一人ナリ、イヅレモ八歳ヨリ十二三歳バカリノ童子ヲシテ是ヲ役シム、コヲ祭リ前十日バカリヨリ、習ハシ、祭ノ日ハ氏神ノ社ヲ始メ、小祠ニ至ルマデ、是舞ヲ奏ス、処ニヨリ其曲節聊ヅヽカハレリ、又何流ナドヽテ、名モアルナリ、又城下ノ市人ハ、八月ノ祭リニ十二三歳ノ女童三絃ヲ持テ、町ノ中ヲ何処トナク弾アリキテ、夜深ルマデヤマズ、又狂戲、棚輿、棚車ナドノ類ハ諸國ニアルヿニテコヽニモ処々ニアリ、
現在の私たちの獅子舞と比べながら少しずつ読み解いてみます。
八月、九月ノコロ、村々ノ祭リニ、獅子ノ舞トテ、
ここでの8月、9月は昔の暦で、現在では9〜10月あたり。村々の祭りということから今と同じ秋祭りの時期に獅子舞は行われていたようです。ただ獅子舞ではなく獅子の舞という表現をしています。
狻猊ノ頭ヲ作リ、是ニ衣ヲ付、前後二人彼衣ヲカヅキテ舞ヲナス、
狻猊は「さんげい」と読みますが、これを「しし」と読み当てています。狻猊は中国の伝説上の生物。獅子舞が大陸由来であることを示しています。また獅子の胴体部分のことを今は油単と言いますが、ここでは衣という表現を使っています。獅子の頭を被って前後2人で舞うのは今と同じですね。
太皷笛鉦ナド鳴シ、其曲節ヲナセリ、凢太皷ニ三人、笛鉦各一人ナリ、
獅子舞の曲節(リズム)は太鼓、笛、鉦などを使っていたようです。今の私たちの獅子舞に笛はありませんが、昔はあったのかもしれません。近隣にはまだ笛を使っている獅子組があります。
人数は今と変わりません。太鼓3人(大太鼓2人、半太鼓1人)、鉦1人です。ただし香川県の東部では太鼓が少なく、鉦が2つ以上のところが多いように思います。この書物は香川県西部の様子を記したものですので、当時から獅子舞に地域差があったのかもしれません。
イヅレモ八歳ヨリ十二三歳バカリノ童子ヲシテ是ヲ役シム、
太鼓、笛、鉦などは8〜12、13歳ぐらいの子どもがしていたようです。今は大太鼓以外は大人がしているので、これは意外でした。県内にはまだ子どもだけでしている地域もあるようですが少数派です。なぜ大人がするようになったのでしょうか?
四国民俗学会理事の水野一典氏はこれを獅子舞の増加によるものと推測しています。昔の獅子舞は神社(祭り)に対して1組だけでした。それが今のように複数組が同時演舞するようになると、子どもは混乱して打てなくなってしまいました。そこで大人がサポートするようになったのではないかとのことです。県内には子どもが打つ太鼓の裏側を大人が打ったり、子どもが太鼓を打つふりだけする地域があります。私たちが使っている半太鼓も太鼓打ち(子ども)が混乱せずに打てるよう後から追加されたものかもしれません。
また大人は子どもよりも大きな音を出せます。同時演舞するとなれば、より派手な音を出すために大人の力が求められたという側面もあるのかもしれません。これが真実なら獅子舞の同時演舞は近代以降の文化ということになります。
コヲ祭リ前十日バカリヨリ、習ハシ、
獅子舞は祭りの10日前ぐらいから習っていたようです。今では3週間前から稽古をします。そこを10日ですから短期集中型ですね。当時は獅子舞を教える人も含めて同じ集落で農業を営んでいたでしょうから、秋の収穫前の時間を獅子舞の稽古に当てていたのかもしれません。
祭ノ日ハ氏神ノ社ヲ始メ、小祠ニ至ルマデ、是舞ヲ奏ス、
祭りの日は氏神の神社から小祠まで獅子舞を奏上(奉納)したとのこと。これは今も同じです。さらに今は氏子の家々を獅子舞をしてまわってお花(ご祝儀)を集める風習がありますが、この当時はどうだったのでしょうか? 民家には屋敷神などの小祠もあったでしょうから、当時から家々をまわる風習はあったのかもしれません。
処ニヨリ其曲節聊ヅヽカハレリ、又何流ナドヽテ、名モアルナリ、
獅子舞の曲節(リズム)は地域によって少しずつ違っており、何流といって名称もあったようです。これは現在も同じで、県内には牡丹くずし、平獅子、キタ流、ミタチ、五段、小笠原流、猩猩くずしなど、名称を現代に伝えている獅子組が多くみられます。しかし、私たちの獅子組にそのようなものは伝わっていません。四国民俗学会理事の水野一典氏のお話によると「それは昔から舞い方を変えてないからではないか」とのことでした。名称は他と区別するためにつけるもの。昔からひとつの舞い方しか知らなければ名称はいらない、ということですね。果たして私たちの獅子舞はいつ誰が始めたんでしょうか? 気になるところです。
又城下ノ市人ハ、八月ノ祭リニ十二三歳ノ女童三絃ヲ持テ、町ノ中ヲ何処トナク弾アリキテ、夜深ルマデヤマズ、
城下では旧暦8月の祭りに12、13歳の女の子が三弦(三本の弦がある楽器)を持って町の中を深夜まで弾き歩いたとのこと。町の方ではまた違った文化が根付いていたようです。
又狂戲、棚輿、棚車ナドノ類ハ諸國ニアルヿニテコヽニモ処々ニアリ、
にわか(即興劇)、ちょうさ、だんじり等の風習は日本各地にあって、当時からこの地にもあったようです。観音寺や豊浜のちょうさは有名ですね。
江戸時代から続く伝統
全体を通して言えることは、江戸時代後期から180年近く経過した現代においても、獅子舞は当時とそれほど変わっていないということです。『西讃府志』には写真は載っていませんので、獅子頭や油単の細部まではわかりませんが、獅子舞のあり方は江戸時代のままです。歴史ある讃岐の民俗芸能として獅子舞はこれからも継承していきたい文化です。
『西讃府志』など県内の古文書の一部は香川県立図書館デジタルライブラリーで読むことができます。香川県の歴史に興味のある方はぜひご覧ください。
参考史料
※「西讃府志」全61巻を1冊にまとめた活字本が明治と昭和に出版されています。