信西古楽図(獅子舞 演舞編)
前回の信西古楽図(基本編)では図の全体像をご紹介しました。
第2回目では上記の獅子舞図を見ていきます。
獅子舞の系統
まず日本の獅子舞のことを簡単にご紹介しましょう。
日本には多種多様な獅子舞があり、「風流系」と「伎楽系」の2つの系統があります。
風流系と伎楽系の違い
特徴 | 風流系 | 伎楽系 |
---|---|---|
由来 | 日本古来 | 大陸から伝来 |
モチーフ | 主にシシ(猪や鹿) | 主にライオン |
分布 | 東日本に多い | 西日本に多い |
中の人 | 1人 | 1人以上 | あやし役 | いないこともある | いる(子どもなど) |
唄 | あり | なし |
香川県の獅子舞のほとんどは大陸由来の伎楽系で、主に二人立ち(2人1組)で獅子を演じます。
伎楽と獅子舞
伎楽とは古代の仮面劇です。「行道」という一種のパレードと寸劇と楽舞で構成され、役者は後頭部を覆うほどの大きな仮面をかぶって演じます。その中に二人立ちで演じる「師子」という役があり、これが伎楽系の獅子舞の起源です。
伎楽は推古天皇20年(612)に朝鮮半島(百済)から伝わり、飛鳥から奈良時代にかけては仏教の普及に伴い寺院で盛んに上演されていましたが、平安時代に衰退しました。
伎楽の起源はギリシャ、中国、インド、インドシナなど様々な説がありますが、日本に伝わった伎楽は呉楽とも呼ばれ、呉(3世紀ごろの中国江南地方)で成立したとされています。
しかし海外には伎楽の記録はほとんど残っていません。その理由は伎楽が民間芸能だったからとされています。
当時の伎楽の師子がどういうものだったのかは謎です。しかし信西古楽図には伎楽との共通点があり、獅子舞の起源を探るための手がかりのひとつになっています。
信西古楽図の獅子舞図
上記が信西古楽図の中の獅子舞図です。
解説文の解読
まずは図に記されている漢文を解読していきます。
師子舞 文献通考出唐太平楽亦謂之五方師子舞師子摯獸出於西南夷天竺獅子等國綴毛為之各髙丈余人居其中像其俛仰馴狎之容二人執縄秉拂為習弄之状五師子各放其方色百四十人歌太平楽舞以足持縄者服飾作崑崙状
引用元 文献通考 巻145(楽考18)、通典 巻146
楽府雑録亀茲部戯有五常獅子高丈余各衣五色毎一獅子有十二人戴紅抹額衣画衣執紅拂子謂之獅子郎舞太平楽曲
引用元 楽府雑録
舊唐書音楽志日髙祖登極之後享宴因隋舊制用九部之楽(中略)太平楽亦謂之五方師子舞師子騺獸出於西南夷天竺獅子等國綴毛為之人居其中像其俛仰馴狎之容二人持縄秉拂為習弄之状五師子各囗其方色百四十人歌太平楽舞以足持縄者服飾作崑崙象
引用元 旧唐書 巻29(志 第9 音樂2)、通典 巻146
現代語訳(私訳)
獅子舞 『文献通考』によると唐の「太平楽」は「五方師子舞」とも言う。獅子は猛獣で西南夷(中国雲南省方面)、天竺(インド地方)、獅子国(スリランカ)などにいる。毛を綴って作ったもので高さは3m以上あり、中には人がいて、うつむいたり仰いだりと慣れた様子。2人は縄を持って払子を手に取り、しつけるように振る舞う。五方師子はそれぞれの方角に対応した色をしており、140人が「太平楽」を歌いながら舞う。縄を持つ人は崑崙のような服装である。
『楽府雑録』の亀茲部の演目に「五常獅子」があり、高さは3m以上で衣は5色。各獅子ごとに12人いて、それぞれ赤い抹額を頭につけて、画衣を着て、赤い払子を持っている。これを「獅子郎」という。太平楽の曲で舞う。
『旧唐書』の音楽志によると、高祖(唐の初代皇帝)の即位後は宴の際に隋の旧制にちなんで、「九部伎」を用いた。(その後、立坐の「二部伎」に分かれた。太平楽は「立部伎」に属する。)「太平楽」は・・・(以下『文献通考』とほぼ同文につき省略)
考察
図に記された解説文は古代中国の文献を引用しています。その中でも『文献通考』は1317年に成立した文献。もし図が平安時代初期に描かれていたとしたら、解説文は少なくとも400年以上経過してから追記していることになります。追記したのは図を模写した藤原貞幹かもしれません。つまり図を説明するために書き下ろされた解説文ではないということです。
また、引用している文献の内容にも誤差があります。そこで文献ごとの相違点を元に整理したのが下の表です。
文献 | 『楽府雑録』 『新唐書』 | 『旧唐書』 『文献通考』 |
---|---|---|
解説年代 | 610〜900年頃 | 710〜800年頃 |
舞の名称 | 五常獅子 /五方師子 | 五方師子舞 |
人数 | 60人 (12人5組) | 140人 |
払子を 持つ人 | 獅子郎 /師子郎 | 獅子を引く人 |
音楽制度 | 九部伎 | 二部伎 |
音楽部門 | 亀茲部・ 亀茲伎 | 立部伎 |
解説文の内容はすべて隋末期(610年代)以降、主に唐の宮廷の獅子舞を記していることがわかりました。これは伎楽の日本伝来と同時期ですが、伎楽は朝鮮半島(百済)から伝わったものです。隋や唐の都(西安)と朝鮮半島は距離があり、伎楽が成立した呉の時代(3世紀ごろ)から300年以上経過していることから、解説文に記された獅子舞は伎楽が変化したか、伎楽とは異なる系統と考えられます。
また、『旧唐書』と『文献通考』の内容は『通典』という唐の時代の文献を参照しており、その編纂時期と前後の文脈から8世紀ごろの状況を解説していることがわかりました。同じ王朝でも年代によって異なる音楽制度があり、その制度によって獅子舞の名称、人数、役割などが変化していたのでしょう。
以上の点に注意しながら、信西古楽図を見ていきます。
獅子を引いて先導する人
獅子に縄をつけて引いている人がいます。解説文では縄を持つのは2人とありますが、図では1人です。
手に持っているムチのようなものは「払子」のようです。払子は古代インドで蚊や蠅を殺さずに追い払うための道具で、やがて煩悩を払う仏具になりました。
顔つきは鼻の高い異国人のように見えます。伎楽では行道を先導して露払いをする「治道」という1〜2人の役があり、顔が赤く鼻高の仮面を被っていました。
治道は日本神話に登場する猿田彦神と同一視されており、日本の祭りでは天狗面や王舞面などをかぶって神輿行列の先頭を歩く姿が見られます。
私たちの地域ではダカ(鼻高天狗)と呼んでいますが、その起源は獅子(ライオン)を使役していた異国人にあるのかもしれません。
獅子をあやす子どもたち
2人の子どもが獅子をあやすように舞っています。
伎楽でも「師子児」という2人の獅子のあやし役がありました。しかし解説文によると唐の時代では、獅子郎という12人や、140人が舞うとあります。図や伎楽に見られる舞が発展した結果なのでしょうか。
香川県の獅子舞では2人の子どもが獅子の前で太鼓を打ったり、舞(芸)をすることが多いです。太鼓打ち(タイコブチ)や曲打ち(キョウクチ)などと呼ばれています。
縫いぐるみのような獅子
獅子は二人立ちで全身が毛で覆われています。
解説文によると唐では「五方師子」や「五常獅子」と呼び、大きな色違いの獅子が5頭いたようです。
現代の中国獅子舞は楊子江を境に「北方」と「南方」に分かれていますが、南方にはこの名残を思わせる色鮮やかな獅子舞があります。
一方、伎楽の師子は1頭が5色の毛で作られていたようです。天平19年(747)に記された『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』には「師子貳頭(五色毛 在袴四腰)」とあります。現代でも五色毛の獅子は沖縄の琉球獅子、ネパールのマハカリ・ピャクン、韓国の北青獅子など中国の周辺地域に見られます。
香川県では五色毛の獅子は見かけませんが、全身黒毛の獅子や毛の模様が入った油単(胴幕)の獅子はあります。獅子の油単の柄は多種多様ですが、中でも毛の模様は最も古いとされています。日本の獅子舞のイメージによく使われる「唐草模様」も渦巻いた毛のように見えます。獅子の原型はライオンのタテガミのような「毛」を生やしていたのでしょう。
また、図の獅子は首元に大きな鈴がついています。獅子舞と鈴の組み合わせはよく見られますが、その鈴はまるでカウベルや猫鈴のようです。獅子の大きさも実物のライオンに近いです。
二人立ちの獅子舞のモチーフは調教されたライオンの姿なのかもしれません。鈴は仏具としてもよく使われており、仏教との関係性も感じます。
五行思想と獅子舞
「五方師子舞」は古代中国の五行思想の影響を受けたものと思われます。五行思想は万物が火・水・木・金・土の5元素から成り立っているという考え方で、方角と色に適用すると東は青(緑)、西は白、南は赤、北は黒、中央は黄となります。
五色の組み合わせは秦の始皇帝が広大な国土を手中にしたことを各地方の地質の色で示したことに由来するそうです。東は青い湿地、西は白い砂漠、南は赤い亜熱帯土壌、北は黒土地帯、中央は黄土高原という感じでしょうか。
「五常獅子」も同じく五行思想によるもので、儒教(孔子の教え)の「仁・義・礼・智・信」を示していると思われます。また古代中国の音楽では「角・商・徴・羽・宮」という5つの音階も定められていました。西洋音階に合わせると「ミ・レ・ソ・ラ・ド」に相当します。このように五行思想を膨らませていくと、各方角の獅子舞の姿も見えてきます。
日本では複数の獅子が同時に演舞することはよくありますが、五行思想で設計された獅子舞は見たことがありません。伎楽では師子1頭で五行を示していたのかもしれません。
ただその他に寺院の五色幕や神社の真榊など、五行思想の影響を受けているものはたくさんあります。吹き流しもそのひとつです。
獅子舞の伴奏曲「太平楽」
解説文によると「五方師子舞」や「五常獅子」は一般的には「太平楽」と呼ばれていたようです。
信西古楽図には太平楽の楽舞図も記されています。現代の日本では4人が武装して舞う演目として伝わっていますが、武の舞とは思えないほどにゆったりした楽舞であることから、のんきな様子を示す言葉としても使われています。
太平楽は天皇即位の儀式などでも上演されていますが、獅子舞は行われていません。しかしその名残からか舞人が付ける武具の一部には獅子頭を模した装飾が見られます。
太平楽が武の舞と獅子舞のどちらのために作曲されたのかは不明ですが、唐では獅子舞の伴奏曲だったのでしょう。武の舞と獅子舞が同時に行われていたのかもしれません。
『続日本記 巻第二』には大宝2年(702)に太平楽が五常楽と一緒に宮中で演奏されたことが記されており、五常獅子との関連性も感じられます。
また『旧唐書』『文献通考』では太平楽を「歌いながら」舞ったとあり、歌詞があったことがわかります。伎楽も別名では「呉楽儛」と呼ばれ、歌詞があったとされています。しかし、日本では太平楽に限らず大陸から伝わった楽舞にはほとんど歌詞がありません。伎楽に関しては「無言劇」というぐらいです。これは漢語を当時の中国の発音で歌うことが難しかったからと考えられています。もし簡単に歌えていたら、日本の伎楽系の獅子舞でも歌っていたかもしれません。
信西古楽図の獅子舞図の後ろには楽人の姿があります。どんな伴奏をしていたのでしょうか。
次回は、第3回 信西古楽図(獅子舞 楽人編)です。
参考史料
- 続日本記 巻第二
延暦16年(797) 藤原継繩,菅野真道/編 - 法隆寺伽藍縁起及流記資財帳(写本)
享和3年 (1803) 吉從/写 - 信西古楽図(日本古典全集)
昭和2年(1927) 正宗敦夫/編 - 日本仮面史
昭和18年(1943) 野間清六/著
P9~29 - 日本芸能史入門
昭和39年(1964) 後藤淑/著
P52~55
「信西古楽図」記事一覧
- 第1回 信西古楽図(基礎編)
- 第2回 信西古楽図(獅子舞 演舞編)
- 第3回 信西古楽図(獅子舞 楽人編)
- 第4回 信西古楽図(獅子舞 舞楽編)
- 第5回 信西古楽図(獅子舞 完結編)