信西古楽図(獅子舞 楽人編)

前回の信西古楽図(獅子舞 演舞編)では獅子舞図をご紹介しました。
第3回目では上記の楽人図を中心に見ていきます。
信西古楽図の獅子舞楽人図

信西古楽図の獅子舞図の後ろに伴奏をする楽人が記されています。
漢文の解読
まずは楽人の近くに記されている漢文を解読します。
唐志亀茲伎有弾筝竪箜篌比巴五絃横笛笙簫觱篥答臘鼓毛員鼓都曇鼓侯提鼓鷄婁鼓腰鼓齊鼓檐鼓具皆一銅鈸二舞者四人設五方師子髙丈余飾以五方色毎師子有十二人画衣執紅拂首加紅袜謂之師子郎
引用元 新唐書 巻21(志 第11 礼楽11)
大拍版小拍版 木之属俗部
引用元 文献通考 巻139(楽考12)
文献通考曰拍版長濶如手 重大者九版小者六版以韋編之胡部以為楽節蓋以代抃也(抃擊其節也情発於中手抃足蹈抃者因其声以節舞亀茲部伎人弾指為歌舞之節亦抃之意也)唐人或用之為楽句明皇嘗令黄幡綽撰譜幡綽乃畫一耳進之明皇問其故對曰但能聰聽則無失節奏可謂善諷諫矣
現代語訳(私訳)
『新唐書』の音楽志によると「亀茲伎」の演奏は筝・竪箜篌・琵琶・五絃・横笛・笙・簫・觱篥・答臘鼓・毛員鼓・都曇鼓・侯提鼓・鷄婁鼓・腰鼓・齊鼓・檐鼓・具が1人ずつ。銅鈸が2人。舞人が4人。「五方師子」を設け、高さは3m以上、各方角の色で飾る。各師子ごとに12人いて、画衣を着て、赤い払子を持ち、赤い抹額を頭にしている。いわゆる「師子郎」である。
大拍板・小拍板(木の属・俗部)
『文献通考』によると、拍板は人の手ぐらいで、大きいものは九板、小さいものは六板。革ひもで綴じられている。胡部の音楽では「抃」の代用とする。(抃とは手拍子で、感情を出すときは手を叩いて踊る。抃はその音で舞のリズムをとるものである。「亀茲部」の楽人は指で弾いて歌舞のリズムを取り、これも抃である。)唐の人々も音楽で使う。明皇(第9代皇帝)がかつて黄幡綽(宮廷の音楽官)に楽譜を作らせたところ、幡綽は耳の絵を描いて献上した。明皇がその理由を尋ねると、幡綽は「よく聴けばリズムを失うことはない」と答えた。これは巧みな遠回しの忠告である。
11人の楽人

図には獅子舞の伴奏者として11人の楽人が描かれています。
楽器構成は「大鼓2・腰鼓2・銅鈸2・手拍子2・觱篥1・横笛1・拍板1」の7種です。
しかし図に併記された漢文では筝をはじめとする18種もの楽器が記されています。
これは古代中国の音楽制度や音楽部門による違いと思われます。
亀茲伎と亀茲部
漢文では「亀茲伎」や「亀茲部」という用語が出てきます。これらはかつて中央アジアに存在したオアシス都市国家「亀茲国(クチャ)」に由来する宮廷音楽部門です。古代中国では隋から唐の時代にかけて国内外の音楽を整理し、宮廷の宴で上演するための組織を立ち上げて制度化しました。
まず、580年代に作られた制度が「七部伎」で7つの音楽部門からなり、そのひとつが「亀茲伎」です。亀茲伎は純粋な亀茲国の音楽ではなく、筝など古代中国の楽器を混ぜて宮廷用に編成されていました。七部伎はやがて西域(中央アジアやインド方面)の国々の音楽を取り込み、「九部伎」「十部伎」と部門の数を増やしていきます。
そして、710年代からは「二部伎」という制度が主流になりました。二部伎とは「立部伎(床下部門)」と「坐部伎(床上部門)」に分ける制度です。立部伎(床下)では大きな音が出せる鼓楽器が主に使われ、坐部伎(床上)では座って演奏できる弦楽器が主に使われていました。太平楽(五方師子舞)は立部伎に属し、床下で上演されていたようです。
このような制度とは別に史料に出てくるのが「亀茲部」や「胡部」と呼ばれる音楽部門です。これらは制度化された記録がないため詳細はわかりません。ただどちらも西域由来の音楽部門で、亀茲部は立部伎のように鼓楽器を中心とし、胡部は坐部伎のように弦楽器を中心としていたようです。『楽府雑録』において「亀茲部」の楽器構成は「觱篥・笛・拍板・四色鼓・揩羯鼓(揩鼓と羯鼓)・鶏樓鼓」と7種が記されています。
以上のことから亀茲伎と亀茲部(立部伎)の違いを整理し、前回に考察した文献ごとの違いと合わせてまとめたのが下の表です。
音楽 部門 | 亀茲伎 | 亀茲部 | 立部伎 |
---|---|---|---|
音楽 制度 | 七部伎 〜十部伎 | 不明 | 二部伎 |
年代 | 580年代〜 | 不明 | 710年代〜 |
楽器 種類 | 多い (18種) | 少ない (7種) | 少ない |
弦楽器 | 含む | 含まない | 含まない |
舞の 名称 | 五方師子 | 五常獅子 | 五方師子舞 |
払子を 持つ人 | 師子郎 | 獅子郎 | 獅子を 引く人 |
人数 | 60人 (12人5組) | 60人 (12人5組) | 140人 |
参照 文献 | 『新唐書』 | 『楽府雑録』 | 『旧唐書』 『文献通考』 |
今風に例えるなら亀茲伎がオーケストラ、亀茲部(立部伎)がマーチングバンドのような感じでしょうか。
図に描かれている楽器の種類は少なく、弦楽器も含まれていません。よって亀茲部(立部伎)に近いと思われます。楽器構成は伎楽とも似ていますが、立部伎に関しては710年代以降の唐の制度ですので、612年に百済から伝来した伎楽とは無関係です。もし関係があるとすれば、亀茲部またはその元となった古い組織ということになります。
亀茲国はシルクロードの要所で、現在の新疆ウイグル自治区クチャ市付近にありました。伎楽を含め獅子舞はインドからこの亀茲国を経て古代中国に伝わったという説があります。史実では古代中国に亀茲楽(亀茲国の音楽)が伝わったのは4世紀ごろですが、伎楽の成立は3世紀ごろとされており、時期が合いません。しかしシルクロード交易は前漢(紀元前2世紀ごろ)から始まっています。王朝が国内外の音楽を制度化する前から、民間では他国との交流があり、伎楽の母胎となるような俗楽(民間音楽)が根付いていたのではないでしょうか。もしくは仏教の祭礼に関わる民俗芸能かもしれません。
日本の獅子舞が主に床下で演じられたり、伴奏にほとんど弦楽器が見られないのは、そうした民間の伝統的な様式を受け継いでいるのかもしれません。
雷太鼓

図には2つの大きな太鼓が描かれていますが、漢文で記された楽器構成の中には太鼓がありません。しかし、引用元の史料を調べると太鼓を演奏に使ったことが記されています。
『文献通考』によると「雷大鼓 雜以龜茲之樂」とあり、太平楽(五方師子舞)で太鼓と亀茲国の楽器を使ったことが記されています。ここでの雷太鼓とは雷神が背負っているような太鼓ではなく、複数の太鼓を一斉に打ち鳴らすことを示しているようです。
『通典』では「雷大鼔 雜以龜兹樂 聲振百里」とあり、『旧唐書』では「雷大鼓 雜以龜茲之樂 聲振百里 動蕩山谷」と記されています。「100里を震わせ山谷を揺るがした」は誇張表現ですが迫力を感じさせます。
なお伎楽では大きな太鼓が使われた記録はありません。行道の時に楽器の持ち運びが難しかったのでしょう。
民俗楽器「拍板」

漢文では拍板という楽器について記しています。
古代中国では楽器を素材や起源で分類していました。「木の属」とは木製楽器で、「俗部」とは民間の伝統楽器です。これは日本の祭りでよく見られる「ささら」の原型ではないでしょうか。
あと漢文にありがちな故事も記されています。楽譜の代わりに耳の絵を献上したのは「民の声をよく聞いてほしい」というメッセージだったのでしょう。
舞人や楽人の衣装
図では前の3人と後ろの楽人が異なる衣装であることはわかりますが、細部まではわかりません。図に記された漢文でも衣装に関する記述はわずかです。しかし『旧唐書』には少し詳しく次のように記されています。
龜茲樂工人皁絲布頭巾緋絲布袍錦袖緋布褲舞者四人紅抹額緋襖白褲帑烏皮靴
旧唐書 巻29(志 第9 音樂2)より引用
これを訳し、図の漢文の内容と合わせてまとめると次のようになります。
舞人の衣装
- 赤い抹額(ハチマキのような飾り)
- 赤い模様入りの襖(脇が空いた上着)
- 白い奴袴(裾をしぼった袴)
- 黒い革靴
- 赤い払子
楽人の衣装
- 黒い頭巾
- 錦袖の赤い袍(どてらのような上着)
- 赤い袴
唐の楽舞の衣装は音楽部門ごとに異なっていました。亀茲の衣装の配色は赤を基調とし、部分的に白や黒が使われていたようです。図は色まではわかりませんが、革靴や頭巾が黒く塗られていることは確認できます。
崑崙のような衣装

前回は触れませんでしたが、『文献通考』などには崑崙のような服装という記述がありました。
伎楽では「崑崙」という役があり、崑崙奴(東南アジアの黒人)がモデルとされています。よって東南アジアの服装とも考えられますが、ここでは特定の服装ではなく見たことのない異国の服装を表しているのかもしれません。図で縄を持つ人は鼻が高く、頭には頭巾の上からハチマキのようなものを巻いています。これは「抹額」ではないでしょうか。
抹額は西域が発祥とされており、崑崙のような服装とは崑崙山(西域の伝説の山)に結びつけた表現とも考えられます。また伎楽面(伎楽で使う仮面)も鼻が高いことから西域の人々の影響を受けているとされています。
伎楽と比較して見えてくるもの
前回からここまでの考察をもとに、伎楽と信西古楽図の獅子舞を比較してみます。
伎楽との共通点
- 治道や師子児らしき人物
- 二人立ちの五色毛の獅子
- 弦楽器を含まない楽器構成
- 西域の人々の面影
伎楽との相違点
- 「仮面」をかぶっている様子がない
- 治道や師子児以外の「役者」がいない
- 行道(移動)に不向きな大きな太鼓
偶然とは思えない共通点もあることから、伎楽と信西古楽図の獅子舞は同じ起源を持っていると考えられます。しかし伎楽の最大の特徴である「仮面劇」の要素がないのは不自然です。もし伎楽の系統なら、能や狂言のお面が歌舞伎の化粧になったように「仮面の痕跡」がどこかに残っていても良いはずです。
つまり信西古楽図の獅子舞は、伎楽と起源は同じですが、伎楽と異なる系統と考えられます。この系統の獅子舞が日本に伝わり編成されたのが「舞楽」の獅子舞ではないでしょうか。日本に伝わった獅子舞は伎楽の1種類ではなかったのです。
次回は、第4回 信西古楽図(獅子舞 舞楽編)です。
参考史料
- 信西古楽図(日本古典全集)
昭和2年(1927) 正宗敦夫/編 - 日本仮面史
昭和18年(1943) 野間清六/著
P9~15、33~36 - 唐代音楽の歴史的研究 楽制篇 下巻
昭和36年(1961) 岸辺成雄/著
P184~197、233~253、365~369、394~407、424~430、434、450~454 - 日本芸能史入門
昭和39年(1964) 後藤淑/著
P52~55
「信西古楽図」記事一覧
- 第1回 信西古楽図(基礎編)
- 第2回 信西古楽図(獅子舞 演舞編)
- 第3回 信西古楽図(獅子舞 楽人編)
- 第4回 信西古楽図(獅子舞 舞楽編)
- 第5回 信西古楽図(獅子舞 完結編)