信西古楽図(獅子舞 舞楽編)

前回の信西古楽図(獅子舞 楽人編)では図に記されているのは伎楽の師子ではなく、
舞楽の獅子舞の原型ではないかというところで終わりました。
第4回目では上記の2頭の獅子図を見ていきます。
舞楽の獅子舞
伎楽は平安時代以降はしだいに衰退していきました。元が民間芸能であり、低俗な要素(安っぽさ)があったのが理由とされています。奈良時代以前には伎楽の他にも大陸から様々な楽舞が日本に伝わっていましたが、多くが民間芸能だったようです。そんな大陸由来の楽舞を宮廷貴族のために上品に編成したのが「舞楽」です。
舞楽は伎楽のように演劇の要素はなく、抽象化した動きによる舞と音楽によって構成されていました。また伎楽が行道による移動があるのに対し、舞楽は主に舞台上で演じられました。その点で伎楽とは系統が異なります。
信西古楽図に記された獅子舞は役者や仮面が見られず、携行が困難な大きな太鼓を用いていることから、舞楽の獅子舞の原型ではないかと考えられます。
また舞楽の特徴として、主に唐楽(古代中国の音楽)を伴奏とする左舞と、主に高麗楽(朝鮮半島の音楽)を伴奏とする右舞に分けられていました。そして左舞には赤系統、右舞には緑系統の衣装が使われました。偶然かもしれませんが、前回ご紹介した唐の舞人や楽人の衣装も赤系統でした。
獅子舞図の前には2頭の獅子が記されています。

これは左舞と右舞に分けられた獅子を表しているのかもしれません。
2頭の獅子

2頭の獅子にはそれぞれ「蘇芳菲」と「新羅狛」という名称が記されています。どちらも一人立ちで、新羅狛の方は手足に獅子頭がついています。
舞楽では「舞番様」という左舞と右舞を一対とする制度がありました。番舞とも呼ばれます。日本最古の音楽書『教訓抄』には次のように記されています。
蘇芳菲 別装束 如師子 競馬行幸奏之
『教訓抄』巻第七「舞曲源物語」より引用
狛龍 別装束 如其駒 競馬奏之唐拍子物(但急奏之)
・・・
師子 無答 御願供養舞之
狛犬 相撲節舞之有別乱声 序破舞
「蘇芳菲」の番舞は「狛龍」となっています。そして蘇芳菲は「師子」、狛龍は「其駒」に似ており、どちらも別に衣装があって、競馬(馬を競わせる行事)の時に奏でるとあります。それと別に師子は「狛犬」の番舞とされており、師子は御願供養(寺社の儀式)、狛犬は相撲節(相撲の行事)で舞うと記されています。
『教訓抄』によると「蘇芳菲」は左舞の舞楽です。「新羅狛」は不明ですが、名称からして右舞(朝鮮半島の楽舞)に関係していると思われます。新羅狛を元に作られた舞楽が「狛龍」や「狛犬」なのでしょうか。それぞれどのような楽舞なのか詳しく見ていきます。
蘇芳菲
『教訓抄』では蘇芳菲を次のように記しています。
蘇芳菲 拍子九 又古楽 新楽
此曲五月節會舞御輿之御前 是従リ弘仁初テ競馬ノ行幸奏之 對右狛龍(小馬形乗) 蘇芳菲ノ身ハ師子ノ姿ナリ 頭ハ如犬頭也(口細シテ面長) 中實装束如左乗尻装束也(木帽子 踏懸 糸鞋也) 在子二人装束如犬(在面帽子 ハキモノナシ) 此中實(楽所末者役) 子者(各従出ル) 乗尻ノ前ニ参向(奏当曲) 向フ御車(付御幸) 舞ノ躰者先ツ身ヲ振テ左ヲハクビ右ヲハクミ次拝二度膝ヲカゞメテハウ 御車ニ先キ立也 御車御所寄畢後又如先ハクビテ環烈之時(即加三度拍子)
古記云 此舞弘仁ヨリ初テ競馬行幸奏之 此舞躰如師子頭ニ有一角頭色金色其身? 詠子二人面形如色白蒙紺帽子如犬蚑之
又船楽ニモ奏之 ソノユヘニ古楽トシルシタル物也 是ハ古楽ニモチヰル時口伝アリ 加拍子時ニ初ノ拍子ヲハ除テ第二ノ拍子ヨリ古楽揚拍子打之(尤為秘事) 仁安ノ日吉ノ競馬ノ御幸ノ舞ニハ建仁三年ノ七社ノ競馬御幸蘇芳菲ノ作法事ノ外ニ違タリ 然者古キヲ正説トスベシ(仍仁安振舞注置也)
『教訓抄』巻第四「他家相伝舞曲物語」より引用
現代語訳(私訳)
「蘇芳菲」 9拍子 「新楽」または「古楽」
この曲は五月節会(5月5日の宮廷儀式)の時に御輿(貴人のお車)の前で舞う。弘仁年間(810〜824)から競馬(馬を競わせる行事)の外出時に演じるようになった。対する右舞は「狛龍」(作り物の馬に乗る)。蘇芳菲の体は獅子である。頭は犬のようである(口が細く顔が長い)。中に入る人の衣装は左方の騎手のようである(木の帽子、踏懸(すねに布を巻いたもの)、絲鞋(絹の靴))。蘇芳菲は子が2人いて、犬のような衣装である(面、帽子、裸足)。この中(下級の楽人の役)の(それぞれ従っている)子たちは騎手(蘇芳菲?)の前に向い(この曲を奏で)、(貴人が外出する)お車に向かう。舞の動作はまず体を振って、左に動いて、右に動いて、次に2度おじぎして、膝をかがめて這う。そしてお車の先導をする。お車が御所から戻ってきたら、同じように動いて、激しく舞う(つまり「三度拍子」というリズムを加える)。
「古記」によると、この舞は弘仁年間から競馬の外出時に演じるようになった。蘇芳菲の体は獅子のようで、頭に角が1本あり、頭は金色。体は?色。歌い手が2人いて、顔は白っぽく、紺色の帽子を覆い、犬が這うように動く。
またこの舞は「船楽」でも演じる。だから古楽とも記している。蘇芳菲には古楽用の言い伝えがある。拍子を加える時に、第1の拍子は打たずに、第2の拍子から「古楽揚拍子」というリズムで打つ(最も大切なこと)。仁安年間(1166~1169)の日吉(日吉神社)の競馬外出時の舞は、建仁3年(1203)の七社(日吉神社やその摂社)の競馬外出時の蘇芳菲の作法と全く異なっていた。当然古い方が基本となる(だから仁安年間の振る舞いを記しておく)。
頭に角がある?

『教訓抄』には蘇芳菲の体は獅子で頭は犬のようであると記されています。これは図とも一致しています。
しかし古くは頭が金色で、角が1本あったとも記されています。もし図が大陸から伝わった本来の蘇芳菲の姿なら、蘇芳菲は日本で時代によって変化していたということになります。
子役は犬?

図の蘇芳菲の子役の外見は犬の縫いぐるみです。しかし『教訓抄』には顔は白っぽく、紺色の帽子を覆い、犬が這うように動くとあります。
これは本来の縫いぐるみから抽象化された衣装や演技へと変わっていった過程を示しているのではないでしょうか。
白い顔は伎楽面の影響とも考えられます。私たちの地域の獅子舞でも子役2人は顔に白粉を塗っていました。伎楽における師子児の仮面の痕跡かもしれません。
時代による様式の変化
蘇芳菲は古くは船楽で演じられていたとあります。船楽とは宮廷の池に浮かべた2艘の舟の上で舞う舞楽です。しかし蘇芳菲はやがて伎楽のように移動しながら演じられるようになり、作法も時代とともに変化したようです。

帝らが駒競の前に舟遊びを見る
蘇芳菲は平安時代から鎌倉時代にかけて様式を変えながら演じられましたが、現代には伝わっていません。しかし現代の獅子舞に影響は与えていると思われます。鳥取県東部に伝わる「麒麟獅子舞」は蘇芳菲の特徴を色濃く残しているようです。
伎楽の影響を受けた舞楽
蘇芳菲は弘仁年間(810〜824)から演じられたと記されています。しかし正倉院の宝物の中には「東寺蘇芳皮児衫 天平勝寶四年四月九日」と記された服が2着残されており、天平勝宝4年(752)には既に舞われていたことがわかっています。正倉院古文書にも天平宝字8年(764)の楽具欠物として「唐古楽素方皮児布衫壱領」と記されているようです。蘇芳菲は奈良時代から伎楽とともに演じられていたと考えられます。
蘇芳菲が御輿を先導するようになったのは伎楽の影響かもしれません。これは香川県の獅子舞の様式とも似ています。例えば山階春日神社の祭りでは獅子は神輿行列の出発前に「傘揃え」という演舞を行なった後に神輿を先導して、帰ってきたら「舞い込み」と称して盛大に演舞します。

蘇芳菲の由来
「蘇芳菲」はサンスクリット語など西域の言葉を漢訳している気はしますが、由来は調べてもわかりませんでした。平安時代の歴史物語『栄花物語』には「そほうひ」ではなく「そはひ」と記されています。実は讃岐弁に「そばい」という似た言葉があります。標準語では「そばえ」です。にわか雨を指す言葉としてよく使われますが、「戯れ」や「演技」といった意味もあります。雨の少ない香川県にとって蘇芳菲は尊いものだったのかもしれません。
新羅狛
新羅狛は『教訓抄』に記されていないため、代わりに舞楽の「狛龍」を見てみます。
狛龍 又高礼龍云 破(拍子十二) 急(拍子十二 又八)
件舞五月節ニ輿出入之間於テ御前奏之乗小馬形二人舞之(冠蛮絵着 右舞人中﨟舞之) 古記云此曲者向御輿筋替ヲ打チ舞フ也 此間吹急(早物打唐拍子也) 破ヲハ不吹之 競馬行幸御幸之時對蘇芳菲シテ急ヲ奏ナリ 狛楽ノ中ニハ秘楽ノ随一ナリ 此舞之躰古記ニハ頗相違シタリ 其作法ヲ日記セサルカ(委様ハ有第四巻注之)
『教訓抄』巻第五「高麗曲物語」より引用
現代語訳(私訳)
「狛龍」 または「高礼龍」という。破(普通のテンポ)は12拍子、急(速いテンポ)は12拍子または8拍子
この舞は五月節会で御輿が出入りする際に演じられ、作り物の馬に2人が乗って舞う(蛮絵装束(護衛の制服)で、右方の中流階級の舞人が舞う)。「古記」によると、この曲の演者は御輿に向かって違肘(左右で同時に違う動作)をしながら舞う。この間は「急」で吹く(唐のリズムで速く打つ)。「破」は吹かない。競馬の外出時に「蘇芳菲」に対して急(速いテンポ)で奏でる。狛楽(朝鮮半島の音楽)の中では最も秘伝の楽舞である。この舞の動作は「古記」と全く異なっている。その作法を記録しなかったのだろうか(詳細は第四巻に注釈してある)。
新羅狛は狛龍?

『教訓抄』を見る限りでは、図の新羅狛と舞楽の狛龍は別物のように感じます。新羅狛の特徴は手足の先の獅子頭です。その痕跡がないと新羅狛が狛龍に変化したとするには無理があります。
ただ狛龍は左右で同時に違う動作をしていたとあります。もし狛龍が新羅狛だったなら手足の獅子頭が別々に生きているように舞っていたのだろうという想像はできます。
舞楽の「狛犬」に関しても調べてみましたが新羅狛との共通点は見つけられませんでした。それにしてもなぜ新羅狛は手足に獅子頭が付いたのでしょうか。頭と合わせて5つの獅子頭を作り五方獅子舞を表現しようとしたのでしょうか。それとも新羅(朝鮮半島南東部にあった国)にゆかりのある霊獣なのでしょうか。
獅子・犬・龍・馬?
舞楽の「狛龍」や「狛犬」は現代に伝わっていないため、由来や外見はほとんどわからないのが現状のようです。
図の新羅狛は獅子のように見えますが、狛龍は一体どんな動物をモチーフにしていたのでしょうか。狛龍は「其駒」に似ているとありますが、其駒は御神楽であり、何が似ていたのか不明です。狛龍の「狛」からは犬のような姿、「龍」からは角の生えた龍をイメージできます。また狛龍の舞人が乗っていた「小馬形(駒形)」は小さな作り物の馬のことです。獅子か犬か龍か馬かわかりません。
ただ新羅狛、狛龍、狛犬が朝鮮半島由来の楽舞であることは間違いなさそうです。狛龍の別名が「高礼龍」ということからも、狛は高麗、つまり高句麗(朝鮮半島北部にあった国)が関与しています。日本の獅子舞は古代中国だけでなく、朝鮮半島の獅子舞の影響も受け、平安時代には既に多種多様な獅子舞があったのかもしれません。
舞楽の獅子舞と狛犬

神社の境内でよく見られる狛犬。古くは社殿から見て左側が獅子で、右側だけを狛犬と呼んでいました。
これは舞楽において左方で「蘇芳菲」や「師子」、右方で「狛龍」や「狛犬」が舞われていた時代の名残と思われます。左右で異なる舞が演じられたり、一対の獅子像が獅子・狛犬となった背景には、平安時代の陰陽思想や左右対称を嫌う日本人の美意識があったのでしょう。舞楽の獅子舞と狛犬の関係性についてはいつか記事にしたいところです。
信西古楽図に記された2頭の獅子が何なのかは不明なところが多いですが、舞楽の獅子舞は現代の獅子舞に影響を与えていることがわかりました。信西古楽図の最後にはもうひとつ獅子舞図が記されています。それをご紹介して最後にしたいと思います。
次回は、第5回 信西古楽図(獅子舞 完結編)です。
参考史料
- 教訓抄
天福元年(1233) 狛近真/著 - 正倉院御物目録 南倉之部
大正13年(1924) 奈良帝室博物館正倉院掛/編
P26 - 信西古楽図(日本古典全集)
昭和2年(1927) 正宗敦夫/編 - 日本仮面史
昭和18年(1943) 野間清六/著
P149、150、153〜156 - 日本芸能史入門
昭和39年(1964) 後藤淑/著
P55〜58、70~72 - 日本思想大系23
昭和48年(1973) 林屋辰三郎/編
P86〜90、106、107、142、143 - 栄花物語(下)
平成5年(1993) 松村博司,山中裕/編
P159
「信西古楽図」記事一覧
- 第1回 信西古楽図(基礎編)
- 第2回 信西古楽図(獅子舞 演舞編)
- 第3回 信西古楽図(獅子舞 楽人編)
- 第4回 信西古楽図(獅子舞 舞楽編)
- 第5回 信西古楽図(獅子舞 完結編)