天霧山の祠
もうすぐ山の日。今年は辰年なので龍神祠のある天霧山に登ってきました。
天霧山とは?
天霧山は西讃(香川県西部)に鎮座する標高381.8mの山です。
東から順に、天霧山・弥谷山・黒戸山と連なる3連峰で、善通寺市、多度津町、三豊市にまたがっています。
文殊菩薩が獅子に乗っているような山の形から、麓にある萬福寺や牛額寺では山号を「獅子山」としています。また獅子の霊巌や獅子蔭谷などの地名もあります。
昭和40年代から山の南面が砕石採取のために切り崩され、山の姿は大きく変わってしまいました。時代の移り変わりを感じさせる里山です。
難攻不落の牙城「天霧城」
天霧山で有名なのは中世に築かれた天霧城と現在も残る城跡です。
天霧城は古代の讃岐三軍団のひとつ「白方軍団」の拠点だったという説もありますが、本格的に築いたのは相模国(今の神奈川県)出身の武士である香川景房(景則)。貞治3年(1364)以降、いろは四十七文字とかけて47の櫓が築かれ、天霧山全体が城郭だったとされています。
香川氏は普段は本台山(多度津山)に居を構え、敵から攻められた時は天霧城に立てこもり戦いました。断崖絶壁の自然の地形を活かした天霧城は堅牢で、讃岐随一の名城とまで呼ばれていたようです。
香川氏による統治は4代200年以上に渡って続きますが、天正7年(1579)に土佐の長宗我部元親に城を落とされ、その6年後に豊臣秀吉の四国攻めにより、天霧城は廃城となりました。
今でも階段状にならした地形や石塁(石の壁)などが残っており、山頂付近は「天霧城跡」として平成2年(1990)に国の史跡に指定されています。
登山ルート
天霧山には複数の登山道がありますが、今回は多度津側の登山道を使いました。
ただ北尾根を登るルートは正式ではないようです。
天霧山は登山技術を要する山ではありませんが、少しでもルートを外れると滑落する恐れのある危険な山です。もしこのルートで登山する方は登山経験のある方との同行をおすすめします。
天霧山の龍神祠
天霧山の龍神祠は上の写真の赤丸付近にあります。山階地区からすると山の麓にある佃集落の延長線上です。麓の佃から東に下った先には龍王祭をしている西村公民館があります。
こちらが天霧山の龍神祠です。
山の北尾根に沿って築かれた天霧城の櫓跡に鎮座しており、西には瀬戸内海が広がります。
龍神祠は江戸後期の地誌『西讃府志』にも記されていますが、山階村と奥白方村それぞれに記載があります。2村で祀っていたということでしょうか。それとも山階の龍神祠は別にあったのでしょうか。いずれにしても、奥白方でもこの場所は「竜王宮」と呼ばれており、これが龍神祠であることは間違いありません。
現在は「馬道祠」とも呼ばれているようです。天霧山の北尾根の道が「馬道」と呼ばれていたからでしょう。北尾根の登山口は周囲を山に囲まれており、敵から見つかりにくいところにあるため、人馬を使った物資運搬に使われていたとされています。馬道は祠の裏(西側)を通っており、祠は東(山階の方)を向いています。
龍神祠の歴史
下の写真は昭和30年頃に撮影されたと思われる龍神祠です。
農業が盛んな山階地区では、天霧山は農作に必要不可欠な雨水を恵んでくれる山として古くから崇拝されてきました。天霧山の龍神祠はその象徴です。『四箇村史』によると、文化8年(1811)の大旱害(水不足による農作災害)の時に、亀山助左衛門次郎の子「亀八」という人物によって祀られたとあります。
お祀りしているのは高龗神という水や雨を司る龍神様。山階地区では「龍宮さん」と呼ばれています。龍宮さんはもとは山階の亀山家の守護神であり、御神体は亀山家に代々伝わる龍の模様が入った古鏡とのこと。この鏡を外へ持ち出すと必ず雨が降ったことから、龍宮さんの御神体に違いないとして祀り始めたそうです。
それから雨乞いの時には松明を持って行き山上でお火焚きをするようになり、毎年5月吉日は祭日として山に登って獅子舞奉納をしていました。
現在は山には登りませんが、毎年4月に「龍王祭」と称して、天霧山の麓にある西村公民館に祭壇を設け、神事と獅子舞奉納が行われています。
北尾根から見る絶景
北尾根の途中にある焼香岩の近くからは広範囲に渡る絶景を楽しめます。ちなみに焼香岩とはかつての落城の際に亡くなられた方を焼香を焚いて弔った場所だそうです。
天霧山から見る上小原
天霧山からは上小原全域が見えます。
天霧城跡
龍神祠から北尾根を100mほど駆け上がると、山頂の天霧城跡に着きます。
昔は山頂から四方をよく見渡せたそうですが、現在は木々が茂っているため下は見えません。
天霧城にまつわる伝説
天霧城には長宗我部軍に攻められ落城したときの伝説があります。
白米城伝説
天霧城は水攻めを受けました。周りを取り囲まれて水を飲めなくされたということです。そこで敵に弱みを見せないために、城から白米を流して水が豊富にあるよう見せかけました。しかし山の麓の百姓が水ではないと告げ口したため、弱みを見抜かれて城は落とされてしまいました。それからというもの、その百姓の家では正月に餅をつこうとすると米がヒルになってしまう呪いがかかってしまったとのこと。
また告げ口したのは尼さんという説もあります。その尼さんは落城後に城主の家来によって斬られてしまいました。そのため、尼斬と呼ばれるようになったとも言い伝えられています。
実のならないホオズキ
天霧城主のお姫さまはホウズキが好きで、天霧城が落城して逃げる時に「たんばほうずき花は咲いても実はならぬ」と言って落ちのびたそうです。一族の繁栄を美しさと儚さを持つ花に例え、落城によって再興の希望すら絶たれたことを実がならないと表現したのでしょう。お姫さまの無力感や悲しみが伝わってきます。それからというもの、天霧山の山頂のホオズキは花が咲いて袋ができても中に実ができないと言い伝えられています。
山頂でホオズキは見つかりませんでしたが、代わりにヒオウギが咲いていました。天霧城の荒廃した姿は戦国の世の厳しさを物語っています。
落神祠
天霧城跡の近くに「落神さん」と呼ばれる祠があるそうなのですが、見つけられませんでした。
その祠は山階の春日神社と何らかの関係があると思われます。
春日神社から縄筋(古代の条里制による土地区画の線)に沿って200mほど西に「落神」という小地名があります。落神は春日の神様が降臨した場所とも言い伝えられており、現在も春日神社の社地です。かつて落神祠があったとされていましたが、現在は何の痕跡もありません。
『西讃府志』によると、近辺の村々で落神という祠を祀っていたのは山階村のみです。『四箇村史』にも落神祠は記されており、旧暦9月9日の小祭りの際に獅子舞を奉納していた記録もあります。山階の落神祠は雨乞いのために天霧山の山頂に祀られたのかもしれません。
天霧山の山頂は春日神社や落神を通る縄筋の延長線上にあります。天霧山の東面はかつて天満寺村(現在の善通寺市の東碑殿)があり、江戸時代末期まで春日神社の氏子でした。現在は山が崩されているため東からは登れませんが、かつては登ることができました。
縄筋は現在は田んぼの畦道としてわずかに残っている程度ですが、古くは春日神社から歩いて天霧山山頂まで行くことができたはずです。
そして天霧山の山頂から西尾根を歩くと弥谷寺に行き着きます。山階の春日の神様は古代に緻密な計算のもと祀られたのかもしれません。
弥谷山の祠
天霧山の西尾根から弥谷山の山頂に向かって歩いていくと、龍神祠とよく似た形の祠があります。ネット検索してみると龍王社の祠とありました。
祠は多度津町奥白方と善通寺市碑殿町の堺にありますが、東を向いています。碑殿の八幡神社にある龍王宮に関係する祠でしょうか。それとも善通寺市の吉原で祀られている祠でしょうか。もしご存知の方いらっしゃいましたらぜひ教えてください。
山に龍神や龍王の祠を祀るのは天霧山や弥谷山に限らず、香川県ではよくあります。雨の少ない香川県にとって雨水の恵みがいかに貴重なものだったのかを示しています。
天霧山の由来
多度津町には「天霧山に雲がかかれば雨」ということわざがあります。
昔の人は西から来る雨雲を天霧山を見て察知していました。また古くは天霧ではなく「雨霧」と記していました。天霧山の名称の由来は、白米城伝説の尼斬説もありますが、山が雨霧で覆われることにちなんだものです。
明和5年(1768)に成立した『三代物語』の雨霧城の条には次のように記されています。
雨霧城 在彌谷山絶頂 雲霧恒覆 因名焉 城最巖嶮 香川氏築以備外冦 有冦則據之 北山跨二郡 城在多度 寺在三野
『三代物語 下』より引用
現代語訳(私訳)
雨霧城は弥谷山の山頂にあり、雲や霧が常に覆っていることにちなんでその名が付けられた。城は最も険しい所にあり、香川氏が外敵に備えるために築いた。外敵が来た時は拠点にした。北山は2郡にまたがっており、城は多度郡あり、寺は三野郡にある。
雨霧山の名称の歴史
『三代物語』では雨霧山ではなく、弥谷山の峰のひとつとして記されています。弥谷山は空海ゆかりの弥谷寺がある山として名が通っていたからでしょうか。同文献に「多度郡 諸山」として雨霧山も記されてはいるのですが、江戸時代中期では雨霧山の名称はそれほど使われていなかったのかもしれません。
また「北山」とも記されていることから、山を南側から見ていたことが読み取れます。古老の話によると山階では「西山」と呼んでいたそうです。その名称の通り、山階地区から見ると山は西側にあります。
「雨霧」がいつから「天霧」となったのかは不明です。しかし文政11年(1828)に成立した『全讃史』には「天霧城」「天霧山」と記されています。少なくとも江戸時代末期には「天霧」と記されるようになっていたようです。
天霧山は、さん? やま?
天霧山は何と呼びますか?
あまぎりさん? あまぎりざん? あまぎりやま?
「さん(ざん)」と「やま」との違いは山岳信仰の有無という説があるようです。富士山、比叡山、高野山など信仰の対象となった山には「さん(ざん)」が使われているとのこと。
一部に例外もありますが、春日神社を春日さんと愛称で呼ぶように、神社の通称にも通じるものがあります。
天霧山は一般的に「あまぎりやま」と呼ばれていますが、山階地区では「あまぎりさん」や「あまぎりざん」と呼ぶ人が多い気がします。天霧山の龍宮さん、落神さんへの信仰が土地に根付いているのかもしれません。
みなさんも近くの山に一度登ってみてはいかがでしょうか。
参考史料
- 三代物語 下
明和5年(1768) 増田休意/編 - 全讃史
文政11年(1828) 中山城山/著 - 西讃府志 43・44
安政5年(1858) 秋山厳山(惟恭)/著 - 四箇村史
昭和32年(1957) 四箇村史編纂委員会/編
口絵P10~12、171~174、606、808、809、814、818、819 - 日本城郭全集 第12
昭和42年(1967) 鳥羽正雄 等/編
P138~140 - 日本の伝説5
昭和51年(1976) 武田明,北条令子/著
P62~65、170~178 - 多度津町の地名
昭和63年(1988) 多度津町教育委員会出版/編
P93、99、105、106 - 多度津町誌 資料編
平成3年(1991) 多度津町誌編集委員会出版/編
P363 - 吉原遺跡探訪案内
平成28年(2016) 吉原郷土研究会出版/編
P16