春日神社の本殿
ようやく梅雨が明けましたね。
上の写真は山階の春日神社の本殿。セミも鳴き始め、真夏の空気に包まれています。
今回はこの本殿をご紹介しましょう。
本記事は2024年4月29日に一部改訂しております。
本殿再建の歴史
山階の春日神社の本殿は少なくとも3度建て替えられているようです。
最も古い再建の記録は『道隆寺温古記』によるもので、応永21年(1414)に遷宮したとされています。
また、寛永15年(1638)にも再建が行われました。当時の棟札が今も大切に保管されています。
寛永15年の棟札
棟札とは建物の建築を記念して棟や梁などに取り付ける札のこと。まず表には次のように書かれています。
導師 誕生院阿闍梨々寅瓊和尚位
本願主 河北六左衛門尉
大工 藤原二郎右衛門守吉
助成 惣氏子中奉 再興春日御社一宇金輪聖皇天長地久御願圓満國土豊饒当所安全氏子繁昌、富貴満足衆難遠離諸念如意祈所 矣
寛永十五年戊寅十二月五日
別当 吉原満福寺
『多度津町誌 資料編』 P191より引用
当初政所 善左衛門
組頭分 宇太夫 五郎兵衛 三郎兵衛 十右衛門 与左衛門 藤左衛門 作太夫 五太夫 又右衛門 藤兵衛
導師というのは儀式を行うお坊さん。誕生院(今の善通寺の西院)から来ていたようです。本願主というのは発起人。河北六左衛門尉という人が依頼主ですね。大工は藤原二郎右衛門守吉という人物。それを氏子みんなで助成したようです。
「奉」から始まる1行はおまじないのようなもの。神社の再建にあたって、国の安定と氏子の幸せを願う言葉が綴られています。
上棟の日付は寛永15年の12月5日。
別当とは神社を管理していたお寺。萬福寺が管理していたようです。政所はお役人のこと。当初と書き足されていることから途中で別の役人に変わったのでしょう。最後に組頭として10人の名前が書かれています。
この神社の神様である天児屋根命は藤原氏の祖先とされています。棟札には藤原、藤左衛門、藤兵衛など「藤」がつく人物名がみられますが、これらの方々は神社と深い関わりがあったのかもしれません。
棟札の裏には次のように書かれています。読み取れないところは ⍰ としています。
衆分中
牛額寺宥春 弥谷寺宥瓊 十善坊宥舜
甚左衛門 甚衛門 孫太夫 助九郎 作左衛門 七衛門 三左衛門 太郎左衛門 喜兵衛 儀衛門 清左衛門 吉衛門 又左衛門 孫衛門 五郎兵衛 藤太夫 一九郎 久五郎 伝介 ⍰ ⍰ 六衛門 惣衛門 嘉左衛門 四郎衛門 ⍰ ⍰ ⍰ ⍰ ⍰
『多度津町誌 資料編』 P191より引用
衆分中は山伏の集団。牛額寺や弥谷寺とあることから、天霧山で修行していた人々と思われます。建材となる木もきっと天霧山から切り出したのでしょう。
宝永の再建
寛永15年(1638)に建てられた本殿は、わずか69年で建て替えることになってしまいます。原因は宝永4年10月4日に起きた大地震。のちに宝永地震とも呼ばれるこの地震はこの地域にも大きな被害をもたらしました。この49日後には富士山も噴火しています。
今の本殿はこの宝永地震の2年後、宝永6年(1709)に再建されたものです。建てたのは奥白方村の大工さんで竹内壇右衛門という人物。この時に本殿とそれを囲む透塀が造られました。造営から300年以上経った今もなお、しっかりと建っています。
上の写真は本殿が建てられた時に奉納された木槌だそうです。右から3番目が竹内壇右衛門の槌とのこと。このようなものが残っているのもすごいですね。
本殿の屋根は今でこそ銅板葺ですが、大正時代の記録によると、昔は茅葺だったようです。神社の横にある藤波池・新池のまわりには茅がたくさん自生していましたので、その茅で葺いていたのでしょう。透塀に関しては平成5年(1993)に改修も行われています。
村の有形文化財
春日神社の本殿は四箇村(今の四箇地区)が多度津町に編入されるまでは、村の有形文化財にも指定されていたようです。
本殿は建造物としての文化財。軒を支える木製の組物や内部の御神体は彫刻として、先にご紹介した棟札は書跡として指定されていました。
本殿は拝殿よりも小さいのが普通です。この春日神社のように大きく立派な本殿がある神社は珍しいかもしれません。
春日神社の施設については、境内探索の方でもご紹介していますのでぜひご覧ください。
参考史料
- 仲多度郡史
大正7年(1918) 香川県仲多度郡/編
P606、607 - 四箇村史
昭和32年(1957) 四箇村史編纂委員会/編
口絵P19、P619〜623 - 多度津町誌 資料編
平成3年(1991) 多度津町誌編集委員会/編
P191